|| 物語 || 年表 || 情報掲示板 || E-mail || Vol.1 || Vol.2 || Vol.3 || Vol.4 || Vol.5 || 鑑賞会 || 画像広場 ||


nipper


              「 ニ ッ パ − 物 語   」 

  現在、ヨ−ロッパの国々で「主人に忠実であった愛犬ニッパ−」の話は、日本における「忠
犬ハチ公」の美談と東西の双璧をなしています。

  この物語の主人公のニッパ−は、1884年、イギリス・ブリストルで生まれています。  
最初の飼い主は、マ−ク・ヘンリ−・バラウドという風景画家でした。
  祖父にあたるガブリエル・バラウド一家は1800年初めにロンドンに移ってきて、5人の
息子と7人の娘がおり、その息子の1人ヘンリ−(マ−ク・ヘンリ−の叔父)が、動物画家と
して名をあげています。そのヘンリ−の4男として、1856年6月16日に誕生したのが、
後にニッパ−の絵を描くフランシス・バラウドです。フランシスは18歳でピ−ザ・レイ美術
学校に通い、さらに、ロイヤル・アカデミ−スク−ルに入って銀メダルの賞を受ける成績まで
になり、アントロ−プ美術学校を経て、ロンドンのセントジョ−ンズウッドにアトリエを建て
ています。
  ニッパ−は、マ−ク・ヘンリ−・バラウドと3年間暮らしていましたが、何らかの理由で主
人が亡くなり、その息子と共に従弟にあたるフランシス・バラウドにひきとられることになっ
て、その後、死ぬまでの8年間をすごしています。

  1889年、フランシス・バラウドが、エジソンの円筒式蓄音機のホ−ンを不審にのぞき込
むニッパ−の様子を画に書きとめ“His Master's Voice"とタイトルを付けました。彼は、な
ぜこのタイトルを付けたかは明言していないのです。奥さんの記憶によると、最初は、1台の
蓄音機が中にあったということです。
  従って、ニッパ−をその横に描いたのはずっと後と言うことになるかもしれないのです。  
ニッパ−は、テリヤ系ですが、ブルテリアの血が入っている雑種で気が荒く、自分からは仕掛
けないのですが、売られたけんかは受けて立ち、絶対に負けなかったらしいということです。 
  フランシス・バラウドが、ニッパ−をかわいがっていたことは絵の表情から想像できます。
この絵を、イギリス・グラモフォン社に持ち込んだのは1899年ですから、10年間あたた
めていたことになります。
  一方、実際に描いたのはもっと後ではないかという説もあります。フランシス・バラウドは
それほど裕福ではなかったので、持ち込む寸前に描いたのではないかというものです。最初に
描かれていた円筒式蓄音機を見ると、1883年製のエジソンのものによく似ているのですが
、少し様子がちがうのです。その一つは、ホ−ンの形状で、当時のエジソンのものにはストレ
−トホ−ンがついており、サウンドボックスが傾斜をしています。この絵では、サウンドボッ
クスが平らでホ−ンが湾曲しているし、ハンドルの位置が合わないのです。一歩ゆずってホ−
ンの形状はヨ−ロッパ向けに変更したと考えられますが、ハンドルまでは変えられません。し
かし、本体を前後反対にすると疑問は解決するのです。普通使用するときはストレ−トホ−ン
を自分の方に向けて録音し、そのままの位置で再生します。この絵では、ホ−ンを向こうに回
しているのです。つまり、バラウドは、円筒式蓄音機の正しい使い方を知らなかったことにな
ります。  
 「彼の主人の声」のタイトルから推測すれば、ホ−ンからニッパ−の前の主人、つまりマ−ク
・ヘンリ−・バラウドの声が聞こえていなければ物語になりません。円筒式レコ−ドは、自由
に録音して再生できるから納得できます。しかし、トレ−ドマ−クの蓄音機は円盤式ですから
、主人の声を入れたレコ−ドを聞くことができないはずです(マ−ク・ヘンリ−・バラウドが
歌手であれば別であるがそのような記録はない)。
 また、円筒式レコ−ドを考えた場合、そのころの蓄音機は高価で最先端行く事務機として売ら
れており、一般には普及していなかったのが、どうして彼のところにあったのかも疑問として
のこります。一説には、このエピソ−ドは後からつけられたともいわれています。
  また、ニッパ−は、亡き主人が好んで聞いていた音楽(その曲名もはっきりしている)が聞
こえてくると、蓄音機の前にちょこんと座って耳を傾けたのをバラウドが絵にしたという話も
伝えられています。
  さて、話を戻して、描いた時期ですが、ニッパ−は1895年に死んでいます。絵から想像
するニッパ−は若々しく、5、6歳であろうと思われます。かりに、ニッパ−を蓄音機の前に
座らせたとすれば、あまりよぼよぼでは絵になりません、とすると1890年前半と見るのが
妥当で、1889年にきわめて近い線が考えられます。
  その円筒式蓄音機が、どうして円盤式になったのかが、興味のあるところなのです。そのい
きさつを、バラウドとイギリス・グラモフォンの社長であったオ−エンの手記から知ることが
できます。

  1899年2月にこのドラマは始まります。
  2月11日:バラウドが、イギリス・グラモフォンを訪れ、絵を買ってもらうためにその絵
の写真を置いて帰る。その時、社長のオ−エンは不在であった。
  6月2日  :オ−エンはバラウドに3日か5日に商談をしたいと手紙をだす。
  6月6日  :2人が会って、この絵が宣伝に使えるのではないかと話し合う。しかし、絵が
暗く、そこに描かれているのがライバルであるエジソンの蓄音機であることから、きれいな真
鍮製ホ−ンに描き直すように依頼する。(バラウドはその前にエジソンの会社に持ち込んで断
られているという話があるが真偽のほどはわからない)
  7月25日:その時点では価格が折り合わず、写真がバラウドにもどされる。
  9月15日:グラモフォン社側から100ポンドの金額提示があり、蓄音機を描き改める条
件が出る。
  9月18日:バラウドが承諾、最新型の円盤式蓄音機(B型の試作品)が、アトリエに運び
こまれる。
  10月3日:描き替えた絵が完成する。彼は前の円筒式蓄音機を塗り潰して、その上に新し
い円盤式蓄音機を描きたしている。新しいカンバスを買う金がなかったためか、期間がなかっ
たためか、その絵に愛着があったのかその理由はわからない。蓄音機だけでなくニッパ−の方
にも手が加えられて輪郭がはっきりしている。
 現在、大英博物館にあるという原画には塗り潰す前の蓄音機がくっきりと浮かび上がって見
えるということである。
  10月4日:グラモフォンの役員たちが、初めてバラウドの絵を見る。その日のうちに契約
が成立して、50ポンドを絵の代金、残りの50ポンドを意匠登録の権利譲渡に充てられた。
  12月5日:ランカスタ−のオフセット印刷会社で最初の絵の複製がつくられる。
  1900年
        5月:エミ−ル・ベルリナ−が、グラモフォンを訪れ、この絵をトレ−ドマ−クにす
ることを思いつき、アメリカに帰ると、24日に自分で手書きしたイヌの絵に文字を加えて意
匠登録の申請を出す。
  6月16日:カナダにも意匠登録を出す。
  7月10日:アメリカ特許第34890号で登録される(カナダも同時)。
        9月:カナダのモントオ−ルで、レコ−ドレ−ベルにイヌのマ−クが付く。
      12月:イギリス・グラモフォンでも、イヌだけのマ−クの商標登録をする。
              (文字画入るのは1910年から)
              この年、オ−エンはレコ−ド業界が不振になったときの用心にタイプライタ−
を扱うグラモフォン・アンド・タイプライタ−(G&T)を作るが、1907年に元に戻して
いる。
  1901年
        3月:イギリス特許がおりる。
      10月:ベルリナ−の会社が経営不振におちいり、ジョンソンがイヌの商標権を買い取
って、ビクタ−・ト−キングマシンを設立、アメリカ国内はもちろん、全世界の隅々まで浸透
することになった。
  1909年
        2月:イギリス・グラモフォン・レコ−ドのラベルに、イヌのマ−クが登場する。  
            それまではエンゼル・マ−クであったが、初めて二つのマ−クが並ぶ、そして両
面レコ−ドには、エンゼル・マ−クがレコ−ドの原盤に彫りこまれ、その上にラベルを貼って
浮き上がるようにデザインされた。これは歴史的マ−クに対する敬意であろうと思われる。
同時にフランス、ドイツ、ハンガリ−、オ−ストリアにもイヌのマ−クの使用の指示が出た。
しかし、イヌのマ−クを歓迎しない国もあった。エジプトの一部の地域ではイヌを不浄の動物
としており、イタリアでは「イヌのように歌う」という表現は下手な歌手の代名詞だった。
  1910年
  7月22日:イギリス・グラモフォンが、トレ−ドマ−クをヒズ・マスタ−ズ・ボイス(略
称H・M・V)に改め、イヌのマ−クを使用する。 
   11月:イギリス・グラモフォンのレタ−ヘッドにもイヌのマ−クがつく。
アメリカ・ビクタ−・ト−キングマシンでは、1903年4月に、イヌの代わりにサルを描い
た意匠登録を出しています(1904年には中国人のも出している)。これは、イヌのマ−ク
が有名になりすぎて、類似マ−クが登録されるのを防止するためであったと思われる。

  バラウドは、1913年から23年の間に24枚の複製画を描いています。
  ニッパ−は、死後、愛用していた毛布に包まれて、バラウドの使用していたスタジオの庭に
埋められたともテムズ湖畔の桑の木の下に葬られたともいわれています。
  1950年の夏、最初の飼い主であったマ−ク・ヘンリ−・バラウドの甥にあたるマ−ク・
バラウドの立会いで、関係者たちがニッパ−が埋められたといわれる1本の桑の木を探し当て
掘り起こすことになったのです。これには、EMIからの関係者、新聞記者カメラマンら大勢
の人が集まり、動物の骨を鑑定する王立獣医大学の学生2人も待機させて次々と堀り上げられ
る骨に注目しました。しかし、何本かの動物の骨はあったもののいずれも羊のものと判定され
、犬の骨は出てこなかったということです。

Top

|| 物語 || 年表 || 情報掲示板|| E-mail || Vol.1 || Vol.2 || Vol.3 || Vol.4 || Vol.5 || 鑑賞会 || 画像広場 || 画像広場 ||